■南川 努さん(35回経営)

絶望のどん底で再会した親友。
かけられたひとことが、自分を、会社を、そして地球までも救う。

切っても切れない「豆腐とおから」の縁を「粉砕技術」が一刀両断した。八方ふさがりの会社を救ったのは、青年社長の「発想の転換」なのだった。

◆親友との出会いは、ラケットボール  

 名古屋から近鉄特急で28分、四日市に到着した。四日市は古くは江戸時代から「万古焼き」の里としても知られ、また近代ではその地の利から産業の発展も著しい土地である。この地で先代からの業務用豆腐・油揚げ製造機器の会社を経営している南川 努さん(35M)からお話を伺った。
 大学時代、「スパークル」というラケットボールのサークルに身を置き、同期で親友の川淵 雅仁さん(35M)と、そのハードなスポーツを夢中になって楽しんでいた南川さんは、全国大会でも優勝したほどの輝かしい記録の持ち主でもある。親友の川淵さんは、後に南川さんの仕事の支えとなるかけがえのない人物として登場してくることになる。
 大した苦労もない、こうした学生生活の中で、南川さんは、いずれは実家に戻って会社を継ぐようになる、と漠然と考えていたという。

◆右も左も分らない青年社長の誕生  

 ところがある日、突然かかってきたお父上からの電話。「卒業しなくてもいいから早く帰ってきて会社を手伝って欲しい。」
 そのとき、初めて会社の経営が危機に直面していることを知った。実家のことを心配しながらも、なんとか卒業だけはして、急いで戻った。
 そこで南川さんの目に入ってきたものは、社員数が減少した、暗い雰囲気だけが漂っている会社であった。仕事をするといっても、卒業したばかりの、ましてや経営学科卒の人間が、機械のことなど分かるはずがない。とりあえず営業で外回りを始めたものの、どこへ行っても、「社長の息子なら、機械に対して専門知識があるのは当然」だと思われ、昼間は営業、夜は機械の勉強と、クレーム処理の仕事で明け暮れていった。
 どうにかこうにか仕事もできるようになってきた矢先、会社にとっても、南川さんにとっても「大黒柱」の存在であったいとこが急逝した。会社の業績も悪化し、存続が危ぶまれるほどになってしまったのである。これを機に、お父上は社長を辞任、南川さんが社長に就任することとなったのである。
 最悪の状況の中での、28歳の青年社長の誕生である。