■伝統を守る!3人合わせて22代
― 伝統産業 後継3社長 誌上座談会 ―

 各界でご活躍中のOB・OG社長にご登場頂く「3社長座談会」。3回目となる今回は、日本を代表する伝統産業を守り続ける企業のトップお三方に本音トークも交え語って頂きました。長野・島根・佐賀、遠く離れた3つの県から誌上座談会の形でお届けします。

<ご協力頂いたOB・OGの方々>
木曽漆器 (有) ちきりや
 手塚万右衛門商店
代表取締役
手塚英明氏(27回経済)
有田焼 (株) 崋山 代表取締役社長
山本大介氏(27回経営)
石州瓦 (株) 石州川上窯業 代表取締役
塚本良子氏(38回経営)
以下敬称略

 

「ちきりや手塚万右衛門商店」手塚氏
(問)先ず会社の紹介をお願いします。

 (手塚)
 木曽漆器の創作と販売を手掛けており、創業は江戸末期寛政年間にさかのぼります。私で7代目、業歴は200年以上となります。汁椀・茶たくのようなものから座卓・サイドボード・チェストなど大きなものまで創っていますが、代々伝統技術を受け継ぎながらも、その時代に合った新しい感覚を取り入れた作品を発表して来ました。お蔭様で、数々の賞を頂くことが出来ました。

 (山本)
 寛政8年、西暦1796年の創業。私で11代続く有田焼の窯元です。有田焼は頑なに歴史を守る体質ですが、新たな取り組みで改革しようと思っています。他社とのコラボ企画など、オリジナルの商品化を進めています。有田焼は高いというイメージがありますが、お客様の予算に合わせた企画を産地直送で行っています。何か情報がありましたらご連絡下さい。

 (塚本)
 当社は石州瓦の製造・販売を行っています。石州とは島根県西部の呼称です。創業は昭和10年です。私は4代目にあたります。国内では京都府から屋久島までの西日本を主な市場としており、伝統的な赤い色の和瓦の他、形と色にバリエーションがある洋瓦を提供しています。

(問)皆さん歴史ある仕事をお継ぎになった訳ですが、後を継ぐと決めたのはいつごろですか?或はその覚悟ができたのは何歳くらいの時だったのでしょう?

 (手塚)
 実は祖父の仕事を継いだのは母でした。後継ぎだった長男は戦死し、次男は既に医者。長女二女も嫁に行っていた為、結局三女だった母が継ぐことになった訳ですが、私には一言も後を継げとは言いませんでしたね。ただ、子供の頃から工房が遊び場でしたし興味もあったのでしょう。見て育ったことが自然に後を継ぐことになったのだと思います。

「崋山」 山本氏

 (山本)
 
私は長男、しかも一人っ子でしたから、子供の頃から後を継ぐのが当然といった環境で育ちました。100軒以上ある窯元も同じような状況でしたから、それが当たり前という雰囲気でしたね。結局、平成4年に父から引き継ぎました。

 (塚本)
私には兄がいますので、後を継ぐという意識ではなく、兄を補佐するという考えでいました。子供の頃から、父にそう刷り込みされていたようです。その父に、高校進学時は「家業を手伝うなら、商業高校で良い」と言われていました。後を継ぐのは兄の役割でしたから、その通り、平成24年10月までは兄が代表取締役に就いていました。しかしその兄が、平成22年の12月、夜の10時頃、長女と高校の帰り、交通事故に巻き込まれ、背骨が傷つくという事態になってしまいました。
復帰はしたものの仕事に専念することができないということで、平成24年11月に私が代表取締役に就任することになったのです。予期せぬことでしたので、後を継ぐといつ頃から覚悟していたのかわかりません。

(問)子供の頃に憧れた職業とか将来の夢だとかありましたらご披露下さい。

 (山本)
 剣道をやっていましたから、警察官かな?

 (手塚)
 
特にありませんでした。

 (塚本)
 小学校の文集には「医者になりたい」とか、また住んでいるところが有福温泉という温泉街ですから、「芸者になりたい」とも書いた記憶があります。当時の湯町には、まだ日本髪の芸者さんが沢山いて、きっと憧れていたんだと思います。
 母や先生には、せめて舞妓と書いてとは言われましたが・・

(問)ところで、武蔵を受験されたきっかけをお聞かせ頂けますか?

 (手塚)
 私は数学が好きで理系だったし、国立大学志望でした。
 ただ数学を勉強したところで家業とは縁がない。それじゃ経済学が近いかなと。また一度東京にも行きたかったので、東京の国立大学をと思いましたが、流石に東京の国立大学は難しい。それじゃ私立のどこにしようかと悩んでいたら、高校の先生が「こじんまりして、何せ教授陣が凄い。勉強するならここだ」と武蔵を紹介してくれたんです。
 第一志望は他にあったのですが、残念ながら合格に至らず、浪人も考えたものの医者だった伯父が「どこの大学を出ようが医者は医者だ。人間どこの大学を出たかが問題ではない」と背中を押してくれました。大学の雰囲気が通った高校(松本深志)と似ていたことも決め手の一つでしたね。

「石州川上窯業」 塚本氏

  (塚本)
 
先程申し上げたように、父からは商業高校で良いと言われていましたが、兄は大学、大学院と進んでいました。その影響を受け、自分では大学進学を思い描いていました。武蔵大学を選んだ理由は、少数精鋭であること、そしてゼミの存在でした。

 (山本)
 
家業を継ぐことを考えると武蔵大学というより武蔵野美術大学といった美術系の大学に進む方が理に適っていましたし、事実周りの後継ぎと言われる方は美大に進学する方が多いですね。今でこそ機械化や分業化が進み正社員は50名程ですが、私の学生時代、うちの会社には250名従業員がおり、窯元というより一企業でしたから、組織運営、いわば経営を勉強することを求められたように思います。
 また父からは「東京の空気を吸って来い」と言われました。窯元の技術ではなくマネージメントを学ぶために多くのことを見て感じて来いというメッセージだったと思います。ただ、実を言うと私は、当時天地真理(絶大な人気を誇ったアイドル歌手)の大ファンで、彼女と同じ空気を吸いたい、もしかしたら会えるかもしれない、なんて思ったんですね。やはり東京には色んな人が集まってくる。そこが魅力でした。また、蛍雪時代という受験雑誌に武蔵の名前がありました。かっこいい名前だと思い、受験しました。

「ちきりや」思わず入りたくなる外観
(問)ところで、どんな学生時代をお過ごしになりましたか?

 (山本)
 
子供の頃から剣道をやっていましたので、大学でも剣道部に入りました。本当は大学時代は他のことをやろうかとあれこれ考えていたのですが、剣道部の先輩にチョコレートパフェを奢ってもらい、やっぱり入部しなきゃだめかな、と。素直だったんですね。
 道場に顔を出すと、早速、「明日からはこれとこれを・・」と練習のメニューを言い渡されました。ただ結構強い部だったので、充実した部活動を過ごせましたね。勉強の方と言うと、1・2年は貫隆夫先生の教養ゼミを取りましたが、正直余り勉強しませんでした。専門ゼミはどこか他にしようと考えていたら、何と締切が過ぎてしまったんです。これはまずいと相談に行ったら、まだ間に合うゼミがあると、高山憲之ゼミを紹介してくれたんです。実は定員どころか申し込み者がゼロだったんですね。何せ厳しい先生として有名でしたから。
 こちらは、ともかく入れるゼミがないと卒業も危うくなるので、急いで門を叩いたのですが、私の成績を見て、先生が「君は(専門科目の)勉強はしなくていいから、毎週1冊本を読み、感想文を出しなさい」と仰るんです。
 とても先生の研究する専門分野にはついていけないと思われたのでしょうね。ただ私は2年間、その教えを守ったんです。先生は、分野は問わない、漫画でもいいと。寧ろ経済以外の分野がいいと仰る。それからというもの、とにかく毎週本屋に通い、色んな分野の本を探し、読んでは感想文を書くことが続きました。始めは苦痛だったのですが、だんだん面白くなってくる。
 今度は何を読もう、次は何にしようと、ワクワクして来ました。先生の寸評を聞くのも楽しくなり、まさにマンツーマンの贅沢なゼミとなりました。先生のご自宅にも何度も伺い、食事をしたり泊まったり、奥様も含め色々なお話をしました。入り浸っていた感じです。おそらく先生も、私がどんな本を選び、どんなことを書いてくるのか、楽しみにされていたように思います。これこそ武蔵の良さだということを実感しました。お陰さまでゼミの評価はAでした。
 今思えば、随分色んなジャンルの本を読んだし、経済学だけに捉われず、多くのテーマについて学びました。これが勉強なんだと思いましたね。社会に出て一番役に立ったのは、経済や経営の講義ではなく、中身の濃い高山先生のゼミだったと思います。少数精鋭と言われますが、武蔵にはこんな自由なカリキュラムを許容する、独創性すら感じさせる校風があるんだと思います。

11代続く「崋山」外観 石州瓦の地元の小学校

 (塚本)
 
女子学生が少なかった記憶があります。講義で一緒になるので、経済学部全員の女子と顔見知りでした。学校から歩いて1分くらいのところに住んでいましたので、仲の良い友人とは、講義の合間などに家に集まっていました。
 昨年10月、20年ぶりに当時の女子6人で東京駅で待ち合わせました。東京都内、長野、埼玉、茨城などからも集まってくれました。大学4年間のあの頃に戻り話も弾みました。子供たちの話もしました。専業主婦、課長、専務、社長になろうと、集まっている時の役割は当時のままで、変わらないことを嬉しく思いました。

 (手塚)
 実は1年生の時はよく勉強したんです。
 講義は目一杯取ったし、あと一歩で特待生のところだったんですが、上には上がいましたね。英語も苦手だったし・・ただバドミントン部に入ってからは学業以外も忙しくなり、違った意味で充実した学生生活でした。結果的に単位は沢山取ったので、教員免許も取得しました。

(問)皆さん、卒業してすぐ家業にお入りになったのでしょうか?

 (手塚)
 
大学進学時点から家業を継ぐことを考えていましたが、すぐ戻る気はなかったので、商社にでも就職しようと思っていたところ、友人から「俺の受けるところは受けるな。ライバルにはなりたくない。そもそも腰かけなんて・・」と言われハッとしました。そこで先輩のアドバイスもあり、宮内庁御用達の漆器屋である山田平安堂に2年間の約束で就職しました。ただ先方の常務にも気に入られ、結局4年間勤めることになりました。2階に美術館のような展示場があり、全国の名品が並んでいました。
 居ながらにして多くのものを吸収できただけでなく、2年目以降は全国のデパートでの催事を任され、企画からレイアウト設計・展示・販売・撤収まで、全てひとりでやらされました。そのことが今になって大きな財産になっています。地方のデパートでは大事にされ、先方から接待も受けました。本来とは逆ですが、それだけ物も売れ、ほんとに昼食も取れない程忙しかったんです。結局、大学の4年間は色んな人がいるという発見、謂わば人生の基礎を学び、社会人としての4年間は仕事の基礎を学んだと言えるでしょうね。

 (塚本)

美術品といえるような作品の一つ

大学を卒業し、すぐに家業を手伝うことには抵抗がありました。一般的な教育訓練を受けずに家内工業的な会社に入っていいものだろうかという不安もありましたね。狭い視野の中に留まってしまうのではないかと思い、就職活動をしました。そして丸文株式会社という半導体、電子部品を取り扱う商社に入社。経理部、財務グループに配属され、2年目には新入社員のOJTを任されました。その会社に3年間勤めました。

 (山本)
 父の紹介で経営コンサルタント会社に2年間勤めました。大阪で1年、福岡で1年、営業の仕事をやりました。コンサルタントの営業というか、手帳を売っていたんですよ。ただ、この2年間も勉強になりましたね。

「崋山」展示場
(ゴールデンウィーク中は陶器市でガラガラだったそう)
(問)さて、会社の経営についての悩み或は伝統を守ることの苦労話があったらお聞かせ下さい。

 (山本)
 
11代目というのは結構プレッシャーです。経営は難しい。伝統を守ることも大事ですが、それだけでは生きてはいけない。常に新しいことにチャレンジする必要があると思います。悩みと言えば、やはり「人・もの・金」ですね。

 (塚本)
 
同族会社ですので、大塚家具的なことが起こります。また、人口減少、新築着工戸数減、空き家問題等、住宅関連産業は厳しい状況が続いています。それに伴って出荷数量は減少しています。
 私が入社した当時、従業員は124名いましたが、現在では47名に減少しています。粘土瓦は日本風の建物にしか使用できない、洋風のイメージに合わないという認識が島根県内でもあるくらいですから、一般の家屋に合う粘土瓦があるということを広めていく必要があります。伝統的な赤瓦ばかりではないということをアピール、PRしなければなりません。

 (手塚)
 
無理して大きくせず、支店なども出さなかったことが長く続けて来られた要因だと思います。また、選択と集中ではないですが、扱う商品を絞り、更にはオリジナリティーあるものに特化したことで価格競争にも巻き込まれませんでした。ま、私の基本スタンスは「同じ土俵には乗っからない」ということですね。

(問)さて、皆さん何百年という伝統を守ってこられた訳ですが、後継をどうするのか、具体的にお考えですか?

 (手塚)
 私は別に後継者を血族に限って考えてはいません。この人ならと思える人物であれば譲っても構わないと思っています。現実的には娘二人ですし、長女は嫁いでいますから、今店を手伝っている次女がどう思っているかですね。私からは何も言っていません。

 (塚本)
 子供がいませんので、私自身の子供に後を継がせることはできません。姪っ子、甥っ子の間では、誰が後を継ぐのかということが話題になったこともあるようです。その子たちは小学校1年から中学校くらいの年齢なのです。日頃、家族の生活を見ているのでしょう。継ぎたくないけれど誰かやらないといけないのではないかという思いがあるのかもしれません。

 (山本)
 
子供は男ひとり女ひとりです。息子には30歳までは人脈作りに精を出せと言っています。今は東京に本社がある会社で営業をやっており、ついこの間福岡に転勤して来ました。何れ東京に戻るようです。本人が望めば継がせるつもりですが、息子には拘っていません。娘が継いでもいいと思っています。

(問)お忙しい皆さんですが、オフの過ごし方、ご趣味などをお聞かせ下さい。

 (塚本)
 
休日はボーっとしています。これからの季節は水稲が始まります。毎日夕方、日曜日は主人と一緒に田んぼの作業をしていることでしょう。日常を忘れる作業にもなります。

 (手塚)
 趣味というわけではありませんが、保護司という役回りを15年程続けています。勿論ボランティアですが、少年院を出た少年や仮釈放になった人の社会復帰のお手伝いをしています。寺の住職に言われて始めたのですが、法務大臣から委嘱状を貰い、月1回の面接、月2回の往訪を実施しています。

  (山本)
 30歳までは本格的に剣道をやっていましたが、今が一生懸命のため、強いて言えば仕事が趣味です。

(問)最後に座右の銘、或は一言お聞かせ下さい。

 (手塚)
 
「足るを知る」要は身の丈の人生であり、無理をしないということですね。

 (山本)
 「不易変易」。いいものは残し、悪いものは改善するという意味です。

 (手塚)
 「座右の銘」は特に思いあたりませんが、後を継いで、「人生いろいろ」みたいなことが起こります。誰しもが経験できないだろうことが巻き起こりましたので、これはこれでおもしろいと思っています。
 しかし、私ひとりでは解決できない、乗り越えられないことばかりです。父、兄、家族、従業員、関係者の方々の関わりがあってこそです。海外の方と取引をすることもできますから、これもまた楽しいことです。

石州瓦の家並み

■取材日記

●木曽漆器 手塚英明氏

 東京の桜が散ってしまった4月の第2週、旧中山道の街道筋にある木曽漆器の町木曽平沢の桜はまだ蕾のままだった。
  ご紹介した手塚英明さんは7代目として、伝統産業木曽漆器を受け継いでいる。座談会の中でオリジナリティーの大切さを語って頂いたが、もう少し詳細をお伝えしたい。
 手塚さんはご自分でも手がけるとはいえ、熟練した職人ではない。言ってみればプロデューサー、作品を生みだす役回りである。
 そんな手塚さんが思いついたのが、もっと気軽に使えるイメージのある漆器、その為にオリジナリティー溢れる塗り方を考えたのである。漆器は何度も何度も塗って完成を見るデリケートなもの。従って、傷つきやすいのではとか手入れが大変だとか思ってしまう。
 そこで手塚さんは使うことにより塗表面が変化する方法を考え出したのだ。何十年ではなく数年のうちに下の黒が顔を出す塗り方、変化を楽しみに使ってみようと思えば使用頻度が増し、愛着も湧く。漆器をもっと身近なものに感じてもらいたい、そんな願いも込められている。そして生まれた「乱根来塗(みだれねごろぬり)」更に今では下の朱漆が出る「乱曙塗(みだれ
あけぼのぬり)」も創り上げたのである。そしてもう一つ、手塚さんは、子供用と大人用しかない椀の大きさに疑問を持った。「手になじむお椀を」との思いから、試行錯誤の末、6ミリ刻みで直径を大きくし、汁椀6サイズ、飯椀6サイズの計12サイズを創ったのである。お箸もまた15ミリ刻みで10サイズ創ったとのこと。これが、子供からお年寄りまで一生涯使えるということで「畢生椀」「畢生箸」と名付けられたオリジナル商品である。
 技を磨き質の高さを保つことで伝統を守るのも重要かもしれない。しかし手塚さんは、伝統は守るものではなく伝えるもの、時代時代に新しいものが生まれ引き継がれることの大切さを教えてくれた。
 谷合の集落木曽平沢のお隣は昨今宿場町として観光客を集める奈良井宿。確かに統一感を持たせ整備された町並みは美しい。しかしどこか無理に作られた印象を抱くのも事実だ。
 道路の補修工事が進み、いずれは奈良井宿のように木曽平沢も漆器の里として町並みが整備される計画だという。その古い白壁の家並の一角に大正レトロを彷彿とさせるモダンな家が1軒、時代を代表するかのように建っていた。「統一感はありませんが、街並には合っています。私は時代時代に育った文化は大切にしたいと思いますが・・・」と手塚さんは言う。古いものを守りながら、新しいオリジナリティーあるものを加え、次の代に伝えていく。変わらないものと変えていくもの。伝統とは何か、手塚さんは私に、そんな問いかけをしてくれたように思った。

●有田焼 山本大介氏

 社長自ら営業活動に奔走されている山本さん。月に2回は東京へお出かけだそうだ。ご出張中のお忙しい中、無理を言って時間を作って頂いた。
 所謂伝統的な和食器である有田焼の販売に各百貨店などを回っていらっしゃるかと思ったら、実はオリジナリティーに富んだ商品の企画やイベントでの記念品などのアイデアを提供する仕事が多いとのこと。そんなお話を伺っていた時、カバンから出て来たのは何とあのカップヌードル、いや全く同じデザインの陶磁器だったのである。
 イベント商品として日清食品の担当者と企画したものだそうだ。蓋までデザインが施され、どう見てもカップヌードルそのもの。これは受けたに違いないと思ったら、残念ながら正式採用には至らなかったとのこと。
 そしてもう一つ、優勝記念品としてほぼ採用が決まったのがヤクルト。これまた本物そっくり。ただ結局優勝できず、お蔵入りとなったそうだ。
 古来から伝わる陶磁器を広めていくのも大事ではあるものの、100軒以上もある窯元と勝負するにはオリジナリティーのある商品を作り、差別化を図っていく必要があるとのこと。勿論、伝統的な有田焼であることに間違いなく、その品質の高さはお墨付だ。皆さんにもお馴染みの武蔵のロゴ入りマグカップに留まらず、あらゆるデザインの商品を作ることが可能だと仰る。更に、地震に強い強化磁器、老人施設用の強くて軽い食器などにも力を入れているとのことだった。
 何やら有田焼と聞くと、料亭で出て来る高級品や、昔ながらのデザインの茶碗などしか頭に浮かばなかったが、11代目を名乗るまでに伝わってきた伝統には、常に新しい何かが隠されていたことに気付かされた。

●石州瓦 塚本良子氏

 東京から見ると流石に島根は遠い。なかなか東京に出て来られる機会もないとのことで、電話とメールでのやりとりとなった。お三方一同に会しお話を伺えたら、もっと色々なエピソードや伝統産業を経営する共通のお悩みなど聞けたかもしれない。
 ただ、やはり塚本さんも古いものだけに捉われてはいなかった。島根県や山口県に行くと赤く迫力のある瓦屋根の家を多く見かける。というより、町全体が赤い屋根瓦に包まれているところも珍しくない。その石州瓦の製造販売に留まらず、今や洋風建築にも、そして防災用や太陽光パネル設置対応型の瓦まで製造しているのだ。まさに時代に沿って新しいものを採り入れる。そんな柔軟性こそが伝統を受け継ぐ活力になっているに違いない。


 取材を通して感じたのは、伝統産業が古いものを頑なに守り続けているのではなく、時代に即して新しいものにも目を向けているその勇気と努力。自ら考え自ら調べる、どっこいここにも武蔵の建学の思想が生きていた。

 (文:広瀬 壮二郎、28回経営)