蕎麦屋「あじ半」の店の小上がりは、 実は舞台にもなっちゃうんです!

 大学に進学したら料理学校にいってもいいと父親が約束してくれた。入学した武蔵大学で出会った芝居の道。芝居を続けるために考えた策とは…

あじ半 仲本  福島県郡山市の中心部から、未だ田園風景の残る日和田町に店を開いて17年。暖簾をくぐると仲本さん(24S)の威勢のいい声が厨房から聞こえてくる。「いらっしゃいっ」。東北新幹線で郡山まで1時間ちょっと、東北本線に取り換えて一駅、そこが日和田である。車でも郡山から10分ほどのところだ。お店が昼間の中休みで火を落としてしまう少し前に伺って、先ずは腹ごしらえに「天ざる」を注文した。お客さんが食べている鰊の煮付けにも誘惑されそうである。山菜をふんだんに使った天ぷらはカリッとして美味しい。食べながら店内を見回すと、壁の貼り紙「鰊の山椒漬け・1本150円」に目が行った。鰊の山椒漬けに目がない私が我慢できずにお願いしたそれの美味しいこと、実に蕎麦に合うのである。
 「あじ半」店主の仲本さんは、高校3年生になっても大学へ進学することはあまり考えていなかったのだという。料理に興味があったので料理学校への入学を希望したが父親から許してもらえず、大学へ進学することになった。合格したら念願の料理学校にかよってもいいと約束してくれたのが、励みになったのか、みごと合格。在学中に1年半ほど料理学校に通うことができた。
 大学では演劇研究部に身を置き、来る日も来る日も芝居に夢中だった。好きで好きでたまらない「芝居」がその後の仲本さんの人生を変えていくことになる。大学卒業後は、2年近く平凡なサラリーマン生活を送ることになるのだが、その間も、芝居への夢を捨てきれずにいた。でも、芝居の脚本を書き、演出をするには時間が足りない、サラリーマンをやっていたのでは芝居はできない。

◆ようしっ、店を始めよう!

 脚本作りから始まって、演出、そして公演をするために必要なものは、時間と資金である。サラリーマンを辞めた仲本さんは、パリで当時いちばん大手の日本レストランを経営している会社に就職、修行生活が始まった。そこでアメリカ修行帰りの田崎信也(ソムリエ)といっしょに、いろいろ学んだと話してくださった。帰国後、福島県・会津の割烹料理店で和食と蕎麦の勉強もしたし、千葉のお蕎麦屋でも多くのことを教わったという。
 初めて出した店は焼き鳥屋。蕎麦屋に比べて設備費のかからない焼き鳥屋で資金作りをしたのだという。郡山市内には当時3000軒の居酒屋があったのだが、焼き鳥「あじ半」の客単価は市内でいちばん低く1200円〜1500円だった。郡山で酎ハイのブームを興したのも仲本さん、大きいチェーン店も仲本さんオリジナルの酎ハイの作り方を教わりに来たくらいのアイデア店主である。自分の知らない間にお客の振りをして来ていた県税事務所の人たちも、常連客になってくれていたので、閉店するときには惜しまれたという。

◆実と粉、そして水、そばつゆにこだわって17年
 こうして仲本さん念願の蕎麦屋「あじ半」が日和田町に誕生したのである。
 焼き鳥屋の店を終わる頃から腱鞘炎がひどくなってしまったため、蕎麦作りは機械を導入した。仲本さんは蕎麦粉と、水にこだわる。蕎麦の実の中心部に近いところからしか採れない白っぽい粉が、香り・味・歯ごたえの三拍子そろった蕎麦粉になるという。そして蕎麦粉2種類、小麦粉2種類をブレンドして出来上がったものが17年間変わらない仲本さんの自信作である。
 また、そばつゆは化学調味料なしの本格派。でも仲本さんに言わせれば、これは「こだわり以前の問題」で、「本来の味」なのだという。鰹節だけで出汁をとる。
 水はできることなら井戸水がいい。深く掘ればいい水が出る、そのためには莫大な費用がかかるので、宅地開発が現在進行中で水道管がいちばん新しくてきれいな土地を探した。それがここ、日和田の町である。

◆「あじ半」は劇団「遊人舎」の活力
 仕事の傍ら、仲本さんは脚本を夢中で書いた。芝居の好きな仲間を集めて練習、練習に明け暮れた。練習の場は店の小上がりを使った。小上がりにあるお膳を片付けてしまうと、そこは舞台に早変わりする。1991年(平成3年)に劇団「遊人舎」は初公演を迎え、県内で史上初の入場者数を誇る輝かしい実績を作った。実に才能豊かな仲本さんである。すごい。この後、3回の公演をして現在にいたっている。ここ数年は資金のこともあり、活動を休止しているということであるが、昨今の日本の経済事情はリストラあり大企業の合併あり、そんな落ち着きのない世界の中で芝居は喜劇しかないと確信している仲本さんの心根は熱い。 (山下多恵子 記)