浅羽二郎先生を偲んで

斎 藤 静 樹 


淺羽二郎先生を偲ぶ会

 浅羽先生について、あらたまってお話しをしたり書いたりするのは、私にとってこれが3度目になります。最初は先生の還暦記念論文集を同志社大学の加藤盛弘先生とご一緒に編集したときの序文であり、2度目は先生の最終講義のあとに開かれたパーティーの席のスピーチで、1年後の『武蔵大学論集』に収録されております。先生の学問上のお仕事についてはそれらに譲って、今日は私的なお話に限らせていただきます。いつも同じことを申しますが、私は先生のお導きでこの世界に入り、誰もがそうであるように自分の世界を求めて先生から離れ、そして振り返ればお釈迦様の掌の上を飛んだ孫悟空のように、先生の広大な領地のなかを彷徨してきたように思います。
 先生にはじめてお目にかかった頃、私は健康こそ取り戻しておりましたが、精神的にはまだ病後であったのかもしれません。10代の終わりで既にどこか人生を投げていて、芥川の「人生は一行のボードレールにもしかず」という言葉で自分を誤魔化しているところがありました。そんな、考えてみればどこにでもいる困った学生の諦めと焦りの相半ばした心情を、先生は否定も肯定もせず、実学や応用科学が、基礎となる学問や哲学よりも、また一行のボードレールよりも、時には深く社会や自然の根幹にふれる可能性を、ご自身の思索や経験とともに話してくださいました。珍しく素直に伺うことのできたお話で、後で考えれば私が自分の人生を肯定的に考える転機にもなったような気がします。
 当時、反抗心だけ旺盛な私の問いかけに対する先生の答えには、ひとつの特徴的なスタイルがありました。あなたの議論は問題の一面にすぎません。なぜ、その一面だけに着目するのですか。他の側面との関係をもっと大きくとらえた全体観のもとで、そこでの議論を相対化することはできませんか。たとえば、この面との関係を、あなたはどう考えているのですか。そうやって自らの内省を促すというものでした。それは、自分が研究生活に入って強く感じるようになった、先生の学問の特徴でもありました。ひとことでいえば、対象のさまざまな側面を、それらが同時に動いたままの状態で一体としてとらえ、全面的であるがゆえに反論を許さないという、よくも悪くも思弁的な議論でした。複雑な現実を単純化するよりも、むしろあるがままにとらえる姿勢といえるかもしれません。
 しかし、学者としてそういうスタイルを貫けるのは、思想家の役割を担える一部の人であって、私どもがその真似をしたのでは、いつまでも成果が出ずに悩み続けることになりかねません。ダンテの『神曲』に、「外界の空美しく、日のめ楽しきに、われら内心に煙を抱きて鬱々たる怒を養ひけり。されば今ここに来て泥濘に沈みぬ。」(地獄界、第7歌、上田敏訳)という一節があります。それは知識人の普遍的な姿なのかもしれませんが、われわれはできれば泥濘に沈まないで意識的に視野を限り、むしろスペシフィックで反証可能な結果を追求するほかはないと思うのです。そのためには動いている事実の多くを与件として固定し、一部だけの動きの因果関係に着目する道を歩むことになるのですが、それは先生の経験主義批判に対して、むしろ経験主義の側へ遠ざかっていくものでもありました。しかし、それで迷子にならなかったのは、先生の大きな座標軸にてらして、自分がどこをみているかを確認できたからにほかなりません。そのせいでしょうか、他分野の大先輩になぜかドイツ歴史学派の影響を揶揄されたこともありました。
 とはいえ、大学の管理者や会社経営者の立場に回ったときの先生は、一転していくらでも反論の出そうな意見を、むしろ割り切って主張し迷わず実行してこられたように伺っています。論文を書くと割り切りのよい人が、管理者になると悩むだけで決断できない例はよく聞きますが、先生は研究面でこそ「内心に煙を抱く」姿勢を大切にされました。その使い分けの見事さも、先生の大きさをよく表わしているように思います。お酒や食事など人生を楽しむときの先生も、難しくなりがちな先生の学問と対照的に、単純明快でまことにわかりやすく、地方の学会でご一緒したときなどは、「一期一会」ならぬ「一期一餐」を唱えて、そこまでしなくてもと思うほど美味しいものにこだわられることもありました。お酒を飲まない私も、いつも楽しくお供をさせていただきました。
 別の機会に申しましたが、私は、ドイツのバス・バリトン、ハンス・ホッターの印象を先生に重ねることがよくありました。ワーグナーの楽劇ではなく、シューベルトの「冬の旅」を歌うホッターです。老境に達したドイツ・ロマン派の巨人が、あの堂々たる体躯で静かにピアノの傍らに佇み、遠い青春を温かな眼差しで歌い上げる姿は、青春のさなかで懊悩する人や過ぎ去った青春をいとおしむ人の深い共感を誘うものでした。私ども後進にとって晩年の先生は、彼のような役割を担っておられた気がします。そのような心の拠りどころが失われたことは、多くの人たちにとって、計り知れない損失というほかはありません。その思いは日を追うごとに強くなってまいります。
 今から33年前、私が武蔵を辞して東大へ移るとき、先生は「これで幽明界(さかい)を異にするわけではない」と仰られて快く送り出してくださいました。その後20年を経て先生が武蔵を定年退職されるときは、反対に私が同じことを申し上げて変わらぬご指導をお願いしたのを覚えております。今度はついに幽明相隔つ彼方へ去ってしまわれましたが、私にとっては半世紀近くにも及んだご指導でした。その間、どのような状況にあっても先生を生涯の恩師として信頼し、先生からも信頼していただきました。運命とも思えるこの巡り合わせに深く感謝し、万感の思いを込めて先生を偲ぶ言葉とさせていただきます。
【この一文は、2009年5月9日に武蔵大学主催で開催された「浅羽二郎先生を偲ぶ会」でお話ししたことをまとめたものである。】

明治学院大学教授・東京大学名誉教授・第13回卒業生