■武蔵と歩んだ半世紀を超えた人生
武蔵大学名誉教授・1回生   向山 巖

 同窓会の求めに応じて寄稿した「恩師の情報」は、前回で5回を終了した。最終回になる6回目は同窓会の注文で、内容を変えて私自身を中心にして述べることになった。すでに触れたように、80歳に近づいている私は、学生の時代、そして教員時代を含めて文字どおり武蔵とともに過ごした人生であったといっても過言ではない。学生時代を振り返ると、「恩師の情報」に記載した5人の先生のほかに、私が参加した専門ゼミの芹沢(彪)先生、波多野(真)先生、それに英独の外書講読の授業では4人の先生から16単位をいただき、また経済原論担当の渡辺(佐)先生(後に法政大学総長)から自宅で指導を受け、卒業の際には先生から頑張ったご褒美として「努力賞」をいただくなど、まことに充実した学生生活であった。教員になってからも、佐藤(進)先生(後に東大教授)から公私にわたり兄貴のような気持ちで接していただき、また大学院時代からの友人の今野さん(元教授)、2年後輩の桜井さん(元学長)など尊敬する同僚に恵まれたのも幸いであった。

 多くの先生方のご指導のお蔭もあり、研究者として自己評価するのも面映ゆいが平均並みの研究業績をあげ、アメリカ国務省の招待を含め、何回も海外での研究に出かけることができた。また国や都、特別区の行政関連の多くの審議会に参加し、社会にも貢献できたと思っている。とくに東京の特別区の制度改革には「特別区政調査会」の委員を20年近く務め、練馬区など23区の自治権拡充、「市」と同じ権限をもつ基礎的自治体への転換(2000年の制度大改革)にも深くかかわったと自負している。

 しかし、私にとって最大の誇りといえば、長年にわたり専門ゼミを担当し、多くのゼミ生を社会に送り出したことである。70歳で武蔵の特任教員を辞するまで私の専門ゼミに参加した学生数は903人に達していて、飛び抜けて教え子の多いゼミといってよい。ゼミの教え子の存在こそ何にも代えることのできない最大の財産である。「向友会」というゼミ組織もあり、時折、私の長寿を祝う会や各回の会合がもたれている。ゼミの出身者が多いことから、ゼミの教え子のお子さん、つまり私からみれば「孫」に当たる学生が武蔵に入学するようになり、ゼミの教え子から「子どもが入学した」との便りもある。昨年、現役の武蔵の学生のなかにゼミの教え子のお子さんが4人もいることが分かってびっくりし、昨秋、学長、それに現役学生の父兄にも出席していただいて、「向山ゼミ孫の会」を開くことができた(同窓会会報の最新号No.59に紹介された)。こうした催しは教師にとって何にもまして素晴らしいプレゼントであるといってよい。

向山ゼミ孫の会


 これまでに母校のためにお役に立てた仕事としては、『武蔵七十年史』(1993)のなかの大学編の多くを書いたこと、また『武蔵大学五十年史』(2001)のなかで、大学誕生の頃と同窓会の設立(初代会長に就任)などを記したことがあげられるが、もっとも思い出に残るのは、退職の際、私の研究室から偶然に見つかったフィルムを編集、解説したビデオ作品『武蔵大学−我が心の風景』(2002年に作成、12回生で同窓会副会長の木村重紀氏と22回生の山下多恵子さんにお手伝いしていただいた)があげられる。大学誕生の頃のフィルムを編集したビデオを見るたびに、青春の学生時代の思い出が甦る(卒業生からは好評で、これまでたくさんの注文が同窓会に寄せられているという)。
今年三月、同窓生にとって最大の関心事でもある本年の武蔵大学の受験生数が、ほとんどの大学で横ばいか減少しているなかで、例外的にほぼ倍増というニュースが母校から伝わってきた。受験人口の減少で私学の存廃が問われる厳しい環境にもかかわらず、「ゼミの武蔵」の存在価値がようやく社会的に認識され定着してきたことの証しであり、卒業生としてまことに嬉しい知らせである。

 すでに「喜寿」と呼ばれる年齢を過ぎ、私を指導して下さった先生のすべてが天国へと旅立たれている。やがて私もあの世で恩師と再会することになるのだが、健康で「ピンピン・コロリ」を希望している。忘れられないのは、故人となられた根津元理事長(現理事長のご尊父)がお元気の頃、卒業式のあとの壮行会の挨拶で、毎回、必ず述べられた「健康こそ社会人になってからの最大の活力であり、ビジネスで成功する王道」という言葉で、いつまでも頭から離れない教訓でもある。高齢になった今日でも「健康第一」をモットーに、できるだけ人に迷惑を掛けないように努め、できればいつまでも社会に役立つ人間として生き、教え子たちや武蔵の多くの友人と仲良く付き合っていきたいと念じている。

喜寿を祝う会