• 開催報告

第65回土曜講座

開催日時2023年11月18日(土)
開催場所大学8号館7階8702教室

第1部 映画監督~中川陽介氏(経済学部卒)講演
「人生100年時代、2度や3度の挫折は恐れるに足りない」

 子供のころからアニメや映画が大好きだった中川氏は、映画会社への入社を目指し、大学へ入ったものの、卒業時に大手映画会社の採用枠が無かったため、出版社へ就職し、若者向け雑誌の編集部デスクとして活躍していました。
 しかし、映画製作の夢を捨てきれず、1991年のバブル崩壊のタイミングで出版社を退職し、手にした退職金をもとに会社を立ち上げ、自らの道を切り拓きました。脚本をいろいろな賞に応募して、高い評価を得はじめ、1996年に「青い鳥」の作品で監督デビュー。この作品で1998年のベルリン国際映画祭のヤングフィルムフォーラムに招待され、国際デビューも果たしました。
 1999年には、2作目となる作品「Departure」の脚本と監督を手掛け、NHK国際映像作家優秀賞を受賞し、先のベルリン国際映画祭招待作品に選出されました。
 2009年になると長澤まさみを主演とする「群青」を発表しましたが、ここで、燃え尽き症候群となり、映画界を離れ、2010年に沖縄へ移住して農業の道を目指しました。沖縄では、農業の傍ら小説を書き始め、コンクールで受賞するようになっていたところ、県の方から、コロナで疲弊してる文化人を支援する補助金制度があると声をかけられ、短編映画を撮り、挿入する音楽で音楽家を支援する取り組みをされたそうです。
 すると、その短編が評判良く、次に糸満市から同じような予算があるので映画を撮らないかと誘われて、2本の短編映画を撮ることができました。
 さらに今度は、県からある商店街の街おこしのために映画を撮らないかという話とともに長編が撮れる予算が付き、映画監督として復帰されています。
 若い頃はもっとメジャー作品をバンバン撮る、有名な監督になろうと思っていたそうですが、今は1年に1本でも2本でも、いい映画が撮れればと夢を語られました。
 サラリーマン生活に決別し、自ら立ち上げた会社で夢の映画界へ飛び込んだ中川氏、国際映画祭や映像作家としての評価を受け始めていたが、今度は沖縄へ移住して農家へ転身。そして、そこでの縁で、改めて映画製作に取り組むなど、二転三転する人生はまだまだ転がり続けるのでしょうか。


第2部 永田浩三教授による講演

「映画は人生を豊かにしてくれる魔法の鏡」

 NHKでドキュメンタリー製作に長く携わったのち、武蔵大学へ来られた永田教授からは、子供のころから映画に親しんできた経験や、ご自身の学生時代に出会った映画、NHKでの仕事を通じて出会った監督についてなど、人生を通しての映画との関りを「半分は研究者として、あとの半分はただの映画ファンとして」お話しいただきました。
 永田教授は1954年生まれ、映画への興味は、恐怖映画に対する思い入れと、その恐怖がどのように喚起されるのかというのが原点だとのことですが、好きな映画は感動作もあり、アドベンチャーものもありなど幅広いジャンルに及んでいます。
 NHKの入社試験の役員面接時に「3分で好きな映画の場面を演じてください」と言われ、「男はつらいよ」の一場面をその通り演じたところ、NHKに採用されたとのエピソードも披露されました。
 さらに、NHKでの赴任先の京都で東映撮影所の映画人との交流や、チャップリンは完全主義者で、自分のNGフィルムは全部廃棄するようにと言い残して死んだが、周りの人たちは、こんなすごいものを捨てることはできないと残していた。それがのちに、きちんと整理されて、公開できているとの裏話も紹介いただきました。
 なお、NHK時代に「NHK特集」で、白樺派の小説家夫婦の人生の最期の日々を伝える番組を制作され、その中に登場する画家は、なんと、第一部で登壇された中川陽介監督の祖父、中川一将氏だったとのことでした。脚本家の向田邦子氏も中川画伯のファンだったとのエピソードも紹介されました。
 そんな永田教授がNHKを辞めることとなったのは、故安倍元首相が官房副長官だった2001年に、編集長をした慰安婦を扱った番組に「内容偏り」として番組改変の圧力がかかった事件があったからとのお話も聞けました。
 最後に、映画は時代とともにあるという話を、教授の人生と重ねてお話しされました。映画は、見てる人は、映ってる人へ気持ちが傾いたり、自分の気持ちが様々揺さぶられる世界なんだ。それをわかって欲しくて、ウイリアム・ワイラー監督がオードリーヘップバーン演ずる王女とグレゴリー・ペックが演じた新聞記者のわずか1日の恋物語、「ローマの休日」をメディアの授業で使用しているそうです。

(報告者:関谷文隆 30回経営)

※平成30年12月以前の開催報告は、旧サイトでご確認下さい。