開催報告
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第70回武蔵大学土曜講座 開催報告
| 開催日時 | 2026年3月7日(土) |
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| 開催場所 | 8号館7階8702教室 |
【第一部】14:10~15:00
心に響く・中原中也の言葉
講師: 池田 誠(44回日文)中原中也記念館学芸員
「汚れつちまつた悲しみに今日も小雪の降りかかる・・・」高校生か大学生だった頃、誰もが目にしたことがある詩のフレーズ、早世した天才詩人中原中也の魅力に取りつかれた方も少なくないのではないでしょうか。
今回はそんな中原中也の世界を、中也の故郷山口市湯田温泉にある記念館の学芸員として20余年にわたり、多くの来館者に伝えてきた池田さんにご講演いただきました。
(講演骨子)
中原中也を一言で言うと「心に響く詩人」、数々の名詩集だけでなく、手紙や日記の中に、心に残る沢山の言葉を残している。意外に知られていないが、声に出して朗読して楽しめるところが、中也の魅力のひとつでもある。
中也の出発点は第一次大戦下に生まれた、既成の藝術や合理主義を否定した前衛藝術運動ダダイズムにある。
詩集「在りし日の歌」では道化調で死後の世界と自分を表現するなど、おどけ調の言葉を得意としたところがある。また、中也の視点は上から見ているものではない。横から見ており、平面の中で言葉が展開する。そういった点がまた面白い。
祖父母がカトリック教徒であったこともあり、キリスト教への関心は生涯続いていたが、15歳で浄土真宗の修行に出るなど、むしろ仏教的な世界に近かったのではないかと思われる。
中也の世界はどこか被害者意識のようなところもあり、日記の中にそういった表現がなされている部分がある。
中也のことを著わした加藤典洋の著書「一本の蝋燭について」に「中原の日記の言葉は、わたしに何かを教えたのでも、わたしの心を慰めたものでもない。(中略)それはちょうど(略)何も教えない、一本の蝋燭だった。」との記載がある。「本当に必要なのは、そういう蝋燭である」と続く加藤の言葉は、ひどく心に残った。まさしく中也を言い得て妙である。
中也の詩集には、人を惹きつけるものが散りばめられている。是非、全編を読んでほしい。
(池田氏からのメッセージ)
100年ほど前に活躍した中原中也は、独自の抒情詩世界を築き、従来の詩の枠を超え、多くの後続詩人に影響を与えました。短い人生ながら350篇以上の詩を残し、今でもその詩は世代を超えて人々の心に深く響き、国を超えて多くの人々に親しまれています。
長年中也の言葉と向き合ってきた中で見つけた、人々の心に響く言葉を通じて、中也の隠れた魅力を紹介しましたが、中也記念館では今年の2月から11月29日まで、詩集「在りし日の歌」をテーマ展示とし、編集の背景を辿りながら、その魅力を紹介します。是非、山口までおでかけください。お待ちしています。
【第二部】15:10~16:00
詩人としての堀辰雄ー驢馬・四季・中原中也ー
講師: 戸塚 学 人文学部教授
大学側からは戸塚先生に、「風立ちぬ」という作品によってよく知られる小説家堀辰雄を
詩人としての側面について、その詩の数々をお具体的に取り上げながら、お話いただきました。堀が編集する詩雑誌「四季」に中原中也の詩も載せていたところから、二人の関係性について掘り下げていただきました。
まるでNHKのアナウンサーにも似た、流れるようなお話しぶりに、聴衆もぐいぐいと引き込まれていきました。こんな講義だったら、いつまでも聞いていたいと、現役学生が羨ましくなった次第です。
(講演骨子)
先ずは堀辰雄の詩人としての側面は、室生犀星が「我が愛する詩人の伝記」で「たった数編の詩をのこしただけであるが、その小説をほぐしてみると詩がキラキラ光って、こぼれた」
と紹介している。犀星の視点によれば、「小説の中に詩がある」ということ。
堀辰雄「天使達が・・・」は外国人の子を天使に見立て、現実ばなれした世界を表現、「この村」とは軽井沢のこと、当時の堀には異世界に見えたようである。
同人詩誌「驢馬」は堀が最初の本格的な文学活動を展開した「詩」の雑誌。堀辰雄、中野重治ほか若い文学者に加え、先輩格の犀星や芥川龍之介も寄稿したまさに別格扱いの雑誌であり、同人雑誌が一大ブームを迎えた大正15年から昭和3年にかけて発行された。
「驢馬」第二号の「ファンタスチツク」ではまさにファンタスティックな世界が表現され、「わたし」の持つ「詩集」の中の住人である「お嬢さん」が、「ささや」く対象が「わたし」になっている、など興味深い。
「貝殻と薔薇」では、20世紀のエスプリ・ヌーボーの詩人達が持つ「全く新しい一つの詩脈」が生まれている。堀の「驢馬」における文学営為は、翻訳も創作も「詩」をその中心に据えていた。一方、堀の詩作は初期に限られ、小説が主たる創作となっていく。そして堀の詩への志向は昭和8年以降「四季」へと引き継がれ、ここで中原中也と交錯することになる。
抒情詩への志向を中心とした雑誌「四季」の第一次は堀辰雄編集で季刊、昭和9年10月からの第二次は三好達治、丸山薫、堀辰雄編集で月刊となった。昭和12年2月に神保光太郎に宛てた書簡には「中原君がこんど出したやうに、四、五篇堂々と発表するしかた、大いにわが意を得た者だ」と評価していることが窺える。昭和12年6月の「四季」の会には中也が出席している。
一般に堀と中也の関係は「四季」時代に始まるとされるが、富永太郎や小林秀雄が参加した「青銅時代」や「山繭」を視野に入れると、互いの認知や接触自体は遡る可能性がある。
小林秀雄が堀に送った書簡には「手紙見た。中原の詩気に入ったらしく嬉しい。」とある。
堀が中也を間接的に評価している。
一方、中也も昭和10年11月や12年4月の日記に、四季を気に入っているくだりや、「これでも現詩檀としてはレベル以上・・」と批評しつつも、実は褒めている記載がある。
「四季」昭和10年2月号で中也は、アランの詩論を褒めている他、フィードレルの芸術論が特に心に残ったと記している。
「四季」昭和12年2月号の中也の「かなしみ」という詩には人生の中でこの時期だけの特徴的なものが窺える。こうした「四季」掲載の詩論との呼応は単なる偶然かどうか。堀辰雄と中也にはある種の対話関係があったのではないかと思われる。
(戸塚先生からのメッセージ)
堀辰雄は「風立ちぬ」によってよく知られた小説家ですが、その出発時期には、自身で詩を
書いたり、詩についてのエッセイを書いていました。その詩人としての堀辰雄という側面について、堀が書いた詩を具体的に取り上げながら考えてみました。堀はまた、「四季」という詩雑誌を編集しますが、その「四季」に中原中也も詩を載せていました。両者の関係は薄かったことが一般には知られていますが、詩を結節点として二人の関係についてもあらためて考えてみたものです。
(報告者:広瀬壮二郎 28回経営)
※平成30年12月以前の開催報告は、旧サイトでご確認下さい。




